学んだ英語に命が吹き込まれたヨーロッパ1カ月の旅

ヨーロッパの絵画を鑑賞する目的だったが...

 昔、学生の頃、ヨーロッパ各国を約1カ月かけてまわったことがあった。もう30年も前のことだ。当時は、「地球を歩こう」という分厚い旅行ガイドブックが流行っていて(多分はやっていたと思う)、その本を小脇に抱えながらの、貧乏旅行だった。同級生の親友2人との3人の旅行だった。僕たちは当時美大生で、旅の目的は、僕たちが学んでいた油絵の技を深めるために、本場ヨーロッパの絵画を肌で感じよう、というものだった。
 ただ、僕は高校生の頃から英語が好きで、ほとんど趣味のように勉強していて、大学も美大に入る前に、青学の英米文学科に行っていたので、英語には少しだけ自信があった。

学んだ英語に初めて生命が宿った瞬間

 成田から飛び立った飛行機が最初にヨーロッパの地に降りたのは、ロンドンのヒースロー空港だった。空港を出て、街に出るとそこはまるで、中世の映画のセットかと思うぐらい、時代感に溢れていた。そんな街の中をどうやって辿り着いたかは覚えていないが、確か4階建てぐらいの小さなホテルにチェックインした。"We have reservations here for one(two) night(s)" とでも言ったように覚えているが、すると、ホテルの人は、当たり前のように、英語で応対してくれて、僕もそれに普通に答えていた。
 「あ、イギリスのホテルで、英語で普通にやりとりしている」と思って、なんか変な感じだった。日本では、英語が楽しくて仕方がなくて、熱心に学んできたのだが、その事実に、初めて生命が宿った瞬間だった。

世界中の人達との英語での交流が大きな財産になった

 当時は、「バックパッカー」といって、旅行の日程などは前もって決めずに、ほとんど放浪の旅のようにして、自由にヨーロッパ中を旅する若者たちが、世界中から集まってきていた。そして、そうした人達が頻繁に利用する「ユースホステル」と呼ばれる安い宿では、バックパッカー同士の交流が盛んに行われていた。共通の言語は英語だったので、僕はヨーロッパを旅した約1カ月の間、世界中のバックパッカーたちと、英語で交流することになった。バックパッカーたちだけではなく、ホテルの人達や、飲み屋で知り合った人達、街にたむろす不良の若者たち、街を歩く普通の人達など、様々な人達と交わした英語での会話は、その後の僕の人生に大きな影響を与えることとなった。絵を観るために行った旅行だったが、今考えると、英語で世界中の人達と交流を持つことができたことの方が、はるかに大きな財産になったような気がする。
 これから、このコーナーで、ヨーロッパ貧乏旅行の中で、今でも印象に残っている数々の出来事について、ぼちぼちと綴っていこうと思う。(田口)